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2009年4月の記事

2009年4月21日 (火)

完全回復・解放、感謝

先週の月曜日は、腕の血管が腫れてきたので、予定より1週間早く受診しましたが、昨日は予定通りの受診。

血液検査の結果。「全てが正常値です(・∀・)」。「膵炎についてはこれで終わりです」。「食事もまったく普通にして問題なし」とのこと(^^)/。

というわけで、あと血管炎の方は、放っておいて自然に治るのを待つだけですので、完全に解放されました。

ご心配くださり、お祈りくださった皆様、ありがとうございました。

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神の乳飲み子

先週のイースター礼拝はCS(教会学校)の子どもたちと一緒の合同礼拝でした(礼拝の様子は、ラジオFEBCで来年(!)のイースターに放送予定)。

合同礼拝の恵みを思い起こしながら、今週の礼拝に当たった聖書の箇所は、ルカ福音書18:15-18の、イエス様が子供を祝福された箇所でした。
説教では触れませんでしたが、親たちを叱った弟子たちに対する主イエスの痛烈な皮肉と、マルコが記している「憤り」についていろいろ思いを巡らせていました。マルコが使っている「憤る」という言葉も、相当きつい言葉です。「お前たち! 何を言っているのかー! 愚か者がぁー!」と、怒鳴りつけ、叱り飛ばすような憤りです。

「わたしは熱情の神である!」との御言葉が響いているかのようです。神の熱情、それは他のものを愛することを許さない、人間の嫉妬に似たもののようですけれども、神の愛と別のものではないでしょう。神の熱情の愛は、わたしたちにも神への愛を求めるのです。

復活の主は、主を裏切ったペトロに、三度繰り返して「わたしを愛しているか」と問われました。ふつうここは、三度繰り返し主イエスを否認したペトロの罪とその傷を癒す言葉として受け取られているでしょう。わたしもそのように聞きますし、そこに赦しと癒しを見ます。しかし、「わたしを愛しているか」と繰り返し(言葉も替えながら)問われるその御言葉に、主の熱情をも感じずにおれません。

恐れず言えば、〈主はわたしたちから愛されたい〉のです。他のものではなく、「わたしを愛しているか」。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と、やはり主なる神は、熱情をもって、愛を求めておられます。

しかし、わたしたちの愛が、どれほど底の浅い愛であるか、わたしたちがいかに愛など無い者かを思うと、途方に暮れそうです。ペトロが「悲しくなった」ように。

ただ、主はわたしたちに「子供のように」、いや、「乳飲み子」のようであってほしいと願っておられるのではないでしょうか。乳飲み子は、親が与えてくれるものを、ただ受けているだけです。ただしゃぶりついているだけです。しかし、親はそれで満足なのです。乳飲み子に求めることは、ただ何も心配せず、ただ親が与えるものに一心にしゃぶりつくだけ。それで親は幸せですし、他になにも求めることはありません。

主がわたしたちにもとめておられることは、わたしたちが神の乳飲み子であることではないでしょうか。わたしたちが主の乳飲み子であるこを知ってほしいのです。事実、わたしたちは神の子らなのですから。

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2009年4月14日 (火)

今年、3つめの「炎」

退院後1週間ほど、点滴を入れていた血管周辺が張っている感じがしていましたが、「まあ、一気に大量に点滴を打ったから、こんなもんだろう」と思っていたところ、その後、前腕の片側がむくんできて、激しい痒み。血管も盛り上がって、パンパンという感じ。周りの人たちにも心配をかけているので、20日受診の予定を1週間繰り上げて、月曜日の午前に病院へ。

やはり血管(前腕の静脈)の炎症(´Д`;)。膵炎の薬がしばしば血管に炎症を起こすそうで、絶食のために入れていた点滴の栄養も、濃度の高いものだったので、それもまた炎症の原因となるとのこと。しかし、腫れや痒みのピークを過ぎれば自然に治るそうで、今後は温めるようにするのが良いと言われただけで、薬も出ませんでした。
ただ、自然に治るとは言うものの、腫れが引くまでには3ヶ月とか、月単位の時間がかかるとのこと。やれやれ。まぁ、多少違和感があって、机や肘掛けに腕を置く時に気になるくらいで、特に痛いわけでもないし、放っておくしかありません。

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2009年4月 9日 (木)

時が来た

桜の盛りも過ぎて初夏の匂いさえ漂うようになると、なぜか、飛行機のプロペラの音が、のどかに響きます。しかしこの空のもと、それこそのどかに一日を過ごす人があり、時の経過に不安を募らせる人があり、今日も一日張り切って過ごしている人があり、人それぞれに様々な時があります。

さて今日は、いわゆる聖木曜日。最後の晩餐の日であり、洗足の日であり、主イエスのゲツセマネでの祈りの日です。
血の汗を流すゲツセマネでの主の祈りの傍ら、弟子たちは悲しみのあまり、まさその弱さゆえに、眠りこけてしまいます。

「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た」。

ただ主イエスお一人、神の時を歩み、神の時そのものとなっておられます。
「インマヌエル(神は我々と共におられる)」の主の恵みを祈ります。

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2009年4月 7日 (火)

主イエスこそわが望み

いま、「受難週」に起こった出来事を、聖書の記事に沿って辿っている方々も少なくないでしょう。今日、受難週の三日目は、エルサレム神殿でイエス様と人々との様々な問答・議論がなされた日です。その中でも、やはり「復活」を巡るサドカイ派の人々との問答は興味深いものです。

「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」(マタイ22:29)。
聖書を知らないというのは、もちろん知識のことではありません。聖書に関する思索の深さでもありません。どれほど聖書を知っていると言っても、どれほど広く深い思想をもって聖書に沈潜していると言っても、「神の力」を知らなければ、いったい何になるでしょうか。

かつて日本の多くの文学者たちも聖書に深く精神を傾注しました。たとえば太宰治。「太宰」は、「堕罪」から来ていますし、彼はとくにマタイ福音書を深く読み込み、また深く読み取ったとも言えるかもしれません。しかし、神の力を知らなかったと言わざるを得ません。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」と、主イエスご自身が言っておられます(ヨハネ5:39)。

神の力も永遠の命も、イエス・キリストです。このお方を知ることに、すべてがかかっています。この方のみ言葉、苦難と死、流された血、復活、昇天、そしてこの方の霊。このお方にある神の恵みの力。それゆえに、「主イエスこそ、わが望み・・・わが神、わが宝、わがすべて」と歌わずにおれないのです。

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保険と教会と、クレジットカード

ほんとうに久しぶりの、思いがけない入院でしたが、受難週を前に大事に至らず、感謝でした。
このたびの入院で、改めて見直したのは、「保険」。医療保険に加入していたので、今回はたいした額ではありませんが、治療費・入院費のかなりの部分はカバーできました。「無事故給付金」は飛んでしまいましたが、いつまでも若くはないし、これは仕方ないでしょう。

生命保険の方は教会で加入していただいていますが、現代の生命保険の起源は、イギリスの教会だと聞いたことがあります。牧師が死亡した後の遺族の悲惨な生活を支えるために、組合を作って掛け金を出し合ったのが始まりだそうです。ネットで調べてみると、概ね当たっているようです。

私個人で加入しているのは低額の医療保険ですが、他に「傷害保険」としてクレジットカードの「ゴールドカード」を持っています。「クレジットカード」と「保険」と聞いても、ピンと来ないかもしれません。あるいは、「ゴールドカード」というと、ある程度の高収入とステイタスのある人向けというイメージがあると思いますが、保険と考えれば非常にお得だと言えます。
わたしの場合、意外と宿泊する出張が多いのですが、国内での宿泊や交通機関の利用の際の事故にも自動付帯となる保険が付いているのは安心ですし、万一の場合の保険金も、数千万円から1億円と、相当な額です。また、24時間いつでも医師への相談や育児相談ができるサービスなどもあります。
そのほかの様々なサービスを考えると、ゴールドカードを1枚持っているのは、決して損ではありません。もちろん、ふだんの買い物や公共料金の支払いなどは、他のカードを使って、セコくポイントを稼いでいますが(塵も積もれば山)。

クレジットカードというと、「借金」だとか「損」だと誤解して、比較的高齢の方などは敬遠している人も少なくないようです。しかし、通常は1回払いですから、借金などにはなりませんし、各種ポイント付与の他、キャッシュバックや割引制度など、意外と知られていない様々なサービスや特典があって、じつは庶民の強い味方なのです。

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