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2009年6月19日 (金)

人の「死」・人の「命」とスピリチュアル

臓器移植法の改正案が衆議院を通過した。一般的に注目される議論の焦点は、「脳死」を人の死とするかどうかであるが、「何をもって人の死とするか」は、裏返せば「何をもって(どこまでを)人の命とするか」である。
いみじくも「死」を法律で定めることに表れていることは、「死」とは、人間社会での「取り決め」だとういこと。そうすると、「命」も同様である。

「命」とは何か。それは、科学的に把握することはできず、明確な定義もできない。医学にせよ生物学にせよ倫理学にせよ、それぞれの分野ごことに、「これを生命としよう」「こういう状態になったら死(生命の終端)としよう」という具合に、とりあえず「取り決める」ことしかできない。
しかし、そうした自然レベルの人間関係の中だけでの「取り決め」では、「呼吸停止か、心停止か、脳死か」といった議論のように、命の価値は「目盛りをどの位置に合わせるか」のような、平板なものとならざるを得ない。命の「深み」や「重さ」や「価値」は失われたままとなる。

人間は、とくに現代人は、「命」を考えるときに、神を捨ててしまって、超越的な次元を無視しているので、「命の深み」が分からなくなっている。

ところで、WHO憲章における「健康」の定義の改正案が、10年前から議論されているが、その焦点は、従来の定義("physical, mental, spiritual and social well-being)の中に、"spiritual"を入れることである。改正は総会を通っていないが、健康について言及される時は、すでに"spiritula"の次元が考慮されるのが通常である。
(*** なお、最近流行りの「スピリチュアル」は、ご先祖様だの宇宙の精神だのと言うが、まったく超越的次元などない。一種のエンターテイメント、芸としは面白いかもしれないが。)

健康は、健やかな状態のことであるが、何の状態かというと「生きる者(命)」の状態である。生きる者は、physical(肉体的), mental(精神的),social(社会的)な存在であると同時に、どうしてもspiritual(霊的)な次元においてとらえないと、「生きている」こと、「命」のことが分からないのである。
(ちなみに、WHOの「改正案」は、それらの要素の"dynamic"な状態としている。)

聖書は、その冒頭、創世記2章で、「生きる者」としての「人」と「命」のことを語っている。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)

聖書は、人は「土」「塵」から形づくられていると言う。これは案外、科学的な視点からしても正確である。人間はそれ自体として見れば、どう分析しても人間独特の元素などはないのであり、まさに「土」であり「塵」、宇宙の塵だ。
しかしそれをなぜ、私たち人間は「生きる者」と言い、その生きている一人の存在を、「かえがえのない存在」だとかと言う(信じる、取り決める)ことができるのだろうか。

聖書の証言に聞くならば、「神が」その「息(=霊)」を吹き入れられたから、だという。あくまでも命の主である神との生きた関係、dynamicな関係(超越的な次元との)の中で、はじめて「生きる(命)」ということが意味や価値のあることとなる。
また、その「生きる者」とは、直訳すれば「生きた魂」であり、単なる機能的な意味での生物ではなく、向かい合う(神の「かたち」としての)「生きた人格」である。
さらに聖書は、本来そのような「生きる者」が、命の主に背を向け、神を捨て、霊的次元を失った「肉」としての人間の姿(=罪)をも暴く。そして、霊的に死んだ肉なる人間に、神は命の道を与え、立ち帰るように呼びかけ続けておられることをも語っている。

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